「みづよ高原の夢」(書評風に)

実家の母親が、健康のために通っているプールで知り合った方に、宮崎日日新聞、通称「宮日」の社長の奥さまがいる。
今回出版した本をできれば宮崎でも売り出し、錦を飾ろうと思っていた僕は、来週からの帰省を前に、母親を通して、その社長とのアポをとった。
そのためのやりとりを母親としているときに、その社長が若い頃に出した本があるという話をきいた。
社長と会う前に読んでおいたほうがいいだろうという軽い気持ちで、その本を送ってもらった。
それが「みづよ高原の夢」である。

みづよ高原の夢

みづよ高原の夢

この「みづよ高原」というのは、宮崎県の南部にある北郷町に建設された、知的障害者*1のための民間の施設である。
この施設をつくったのは、自らも知的障害児(瑞代さん)をもつ岡元広昭・京子夫妻。
我が子のための理想の施設を自分たちの力で*2つくるために、京子さんは東京で昼も夜もなく働いて資金をつくり、広昭さんは北郷で瑞代さんと共にくらしながら、施設の建設、整備に励む。そして、この家族の奮闘を見ていた人たちが、資金集めや作業の手伝いなど、さまざまな形で無償の協力を申し出てくる。そして、約10年の時を経て「光の丘・みづよ高原」が開園したのが、1982年5月5日。しかしそのとき、すでに広昭さんはこの世にはいなかった。その2ヶ月前、ガンで亡くなられたのである。

本書は、まず開園式の描写からはじまる。なので、最初から広昭さんが開園前に亡くなっていることは読者に知らされている。ストーリーは、夫婦の苦難とそれを乗り越える愛情が、2人の間でかわされた幾通もの(こちらが恥ずかしくなるくらいに赤裸々な)手紙を引用しながらつづられていくのだが、広昭さんの死があらかじめわかっているだけに、読むのがつらい。

それにしても、岡元夫妻の周りにいる人たちが温かい。親類縁者もそうだし、北郷の人たちもそうだし、東京で京子さんを支えてくれている人たちもみな、温かい人たちばかりである。
もちろん、そうではない人たちもいたと思う。でも、温かい人たちがいたという事実は、そのことによってなくなるものではない。新しい市民社会だとか、社会的公共性などというジャーゴンより、「助け合い」という言葉が似合う、そんな感じのする関係。

ネットで調べる限り、いまでも「みづよ高原」は活動を続けているようだが、みづよ高原に関するサイトがないため、現状についてはよくわからない。おそらく、それほど活発な活動はしていないのだろう。そのあたりのことも、著者である現宮日新聞社長から伺えればと思う。

なお、綿密な取材と強固な信頼関係に基づく著者の筆致が、本書の魅力をより高めていることは、特筆しておくべきであろう。対象に深く入り込み、そこに現れている問題を広く社会に訴えようという著者の姿勢に、ノンフィクション・ドキュメントの底力をみる思いであった。ここのところ、官製談合にまつわるお粗末なニュースがメディアをにぎわせている宮崎ではあるが、こういう方が地元で7割近いシェアを誇る地方紙の社長を勤めていることに、安心したとまでは言えないが、一縷の希望を見出す思いである。

初対面の社長に会うにあたり、社交辞令的に読み始めた本書だが、いろいろと考えさせてくれる、そして豊かな気持ちにさせてくれる良書であった。

帰省する楽しみが、また1つ増えた。

*1:原文では「精神薄弱者」とあるが、精神薄弱という用語には、精神ないしは人格が薄弱であるという差別的な意味合いがあることから、現在では知的障害という用語が使われている。

*2:岡元夫妻が「自力」にこだわっている根底には、行政に対する不信がある。広昭さんの言葉を借りれば、「公憤」である。この本を読むまでしらなかったのだが、養護学校が義務制になったのは1979年。つまりそれ以前は、知的障害児の就学は義務化されていなかったのである。そのため岡元夫妻は、役所に「就学猶予願い」を出さざるを得なかった。就学の猶予を自発的に申請するという屈辱的な行為を強いられたのである。こうしたこともあり、岡元夫妻はこの施設を建設するにあたり、一切の行政からの資金的な援助を断っている。ただし北郷町長は、夫妻の気持ちを理解した上で、行政的な手続きやインフラの整備などにおいて、協力的にふるまっている。なお、この「みづよ高原」について、本書を読むまで僕はまったく知らなかった。開園したときにはもう小学校にあがっていたし、高校までの18年間は宮崎に住んでいたのに、である。こういう施設があるのであれば、小学校の社会科学習などで取り上げられてもおかしくないと思うのだが、そういう記憶はまったくない。こういうところにも、知的障害児に対する公教育の無関心さが現れている、というのは穿った見方に過ぎるだろうか。