シンポジウムを終えて

先日告知してありましたとおり、7月9日、早稲田社会学会第63回大会が開催されました。
午後のシンポジウム「沖縄のローカルとグローバル」には、60名を超える方々に参加いただき、コーディネーターとして嬉しく思います。
ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。


3名の報告者より事前にいただいていたレジュメをもとに、シンポジウムの冒頭で、シンポの目的と概要について話をさせてもらいました。
長文ですが、以下に貼り付けておきます。

 「沖縄のローカルとグローバル」と題した本シンポジウムで中心的に議論される対象は、もちろん「沖縄」である。しかしその議論の射程は、空間的には沖縄を超えて日本、中国、アメリカ、および世界各地の先住民族とつながり、時間的には近世琉球から「3.11後」まで見据えたものとなっている。「沖縄」という場所が経験してきた/経験させられてきた歴史が、議論を沖縄だけには留まらせないのだ。


 ここ数年、沖縄の歴史を日本本土との関係性から読み解いていく研究が相次いで生み出されている。単著に限定しても、例えば北村毅『死者たちの戦後誌―沖縄戦跡をめぐる人びとの記憶』(御茶の水書房、2009)は、沖縄戦で亡くなった本土出身者の遺骨の行き先や、遺族たちによる慰霊行動から透けだしてくる、沖縄をまなざす本土の思惑を鮮やかに描き出している。つい最近出版されたばかりの高橋順子『沖縄<復帰>の構造―ナショナル・アイデンティティの編成過程』(新宿書房、2011)は、戦後の沖縄が本土によってどのように学ばれてきたのかを振り返りながら、そのときどきに課題として沖縄に投影されていたものが「戦後日本」の沖縄認識を反映していることを指摘し、そこに潜んでいる日本のナショナル・アイデンティティ構築の営みを見いだした。シンポジストの1人である多田治の『沖縄イメージを旅する―柳田國男から移住ブームまで』(中公新書ラクレ、2008)も、本土から沖縄にそそがれる観光的まなざしの変遷をツーリストの視点から描き出し、沖縄と本土との間で「まなざしの相互作用」がおきていることを示している。


 こうして描き出されてきた沖縄の歴史的経験が、沖縄で生まれ育ってきた人たちにどのような影響を及ぼしているのか。第1報告者の安藤由美は、ある一定の期間を本土で暮らしたことのある沖縄出身者(Uターン者)の経験に着目しながら、沖縄の社会構造と生活世界を描き出すなかで、その一端を示していく。そこには本土と沖縄の差異性が表出しており、それは本土への違和感のみならず、沖縄への違和感とも接続する。そしてその双方がからみあって、沖縄のローカリティが再生産されていく。
 だがしかし、この差異性は時に、沖縄への差別的な視線を呼び起こす。その視線が意識的なものであれ無意識的なものであれ、まなざされた沖縄は、そこに差別の臭いを嗅ぎ取る。そして沖縄の歴史と現状とが、この嗅覚の正しさを追認させる。第2報告者の与儀武秀は、2009年に地元紙『沖縄タイムス』の文化面担当記者として、1609年の薩摩侵攻から2009年に至る400年の歴史を、国家間、個人間の交際、交渉、外交などを言い表す「御取合」から捉えていく新聞連載を担当した。毎週1回、計45回におよぶ長期の連載は、沖縄で強い社会的関心を集めた。その背景には2009年の沖縄を取り巻く状況への焦燥があった。
 そして2011年の今、沖縄を取り巻く状況は、より悪化しているといわざるを得ない。3月11日の東日本大震災普天間基地移設問題をはじめとする在沖米軍基地問題への関心を奪い取っていくなかで、日米両政府は、事実上破綻している辺野古への普天間代替施設建設に向けて粛々と手続きを進めている。だが震災と、それに続く原子力発電所の問題は、沖縄をとりまく問題状況との相同性を示してもいる。第3報告者の多田治は、平時と軍事とがグローバルな規模で同時に存在していることの意味を、沖縄や福島、グローバルな先住民のおかれてきた状況等に言及しながらひもとき、その先にある新たな視点を導き出す。
 これらの議論を通して、私たちはどうすれば沖縄に、ひいては世界に真摯に向き合うための「構え」を身につけることができるのか、討論者やフロアの方たちといっしょに考えていきたい。

こういう、やや思想系の批評っぽい文章って、自分ではあまり書かないんですよね。
でも、3人のレジュメを読み、どうつなげようかと俯瞰的に見ているうちに、自ずと出てきたのがこういう文章でした。
伝えようとする内容と文体とは、やはり関連しているんだなと、改めて思った次第。


第1報告では安藤先生に、大規模なアンケート調査の成果をもとに、沖縄で生まれ育ち、一定期間本土での生活を経験したあとで、再び沖縄に戻ってきた「Uターン者」が、沖縄社会に与えている影響について論じていただきました。
その主眼は、本土と沖縄との関係は、一方的にまなざされる関係ではなく、相互にまなざしあう関係にあり、それが沖縄のローカリティを再生産しているというもので、それは僕が沖縄の人たちと接する中で実感していたことと相通ずるものがありました。
時間の都合上、膨大な聞き取りデータのほうにほとんど触れることができなかったのは残念でしたが。


第2報告は、沖縄タイムス記者の与儀さんに、薩摩侵攻(1609)から400年、琉球処分(1879)から130年の2009年に、タイムスで特集されていた「御取合400年」を担当していた経験をもとにお話いただきました。
1年間、毎週掲載されたこの特集への沖縄県民の関心はひじょうに高いものがあり、またこの年、沖縄県内各地で、上記2つの事件にかこつけたシンポジウムが毎週のようにどこかで開催されていたとのこと。

それは当時の状況が、現在と類似している点があることに由来しています。
そのことは、琉球処分から100年たった1979年には、ほとんどといっていいほど関心が払われなかったということからも伺えます。

そして、2つの事件のもう一方の当事者である日本本土において、2009年、どれだけの人がこの2つの事件に関心を持っていたのか、と考えると、なんとも複雑な気分です。
「指を踏んでいる人は、指を踏まれている人の痛みがわからない」という言葉の意味を、改めて考えさせられる報告でした。


第3報告は多田先生による、核(nuclear)と沖縄とをグローバルな視点から結びつけた熱い報告でした。
情報量の多い報告の詳細についてここで紹介するのは至難のわざですが、nuclearを「核」に沖縄をみていくと、その地平は福島にも、広島にも、長崎にも、マーシャル諸島にも、ネバダにも、先住民にも広がっていくことが、この報告から実感されました。
そして、誰もが核の脅威からのがれられなくなったという意味で「しきい値のない時代」にある3.11後の世界にあって、誰もが一人称で問題に対峙することの必要性、可能性が主張されて、報告は終わりました。


休憩をはさんで、討論者の勝方=稲福恵子先生、浦野正樹先生からの質問と、報告者の応答があり、さらにフロアからも質問がよせられるなど、議論は尽きませんでしたが、結局10分ほどオーバーしてシンポジウムは無事に終わりました。


コーディネーターの仕事は、報告者と討論者が決まってしまえば、あとは相互の調整をするくらいのものであり、当日は司会という立場にはありながら、純粋に楽しませてもらいました。
あの場にいた人たちのなかで、たぶん、僕がいちばん楽しめたと思います。
今回のテーマは「沖縄のローカルとグローバル」でしたが、ローカルを論じていても、グローバルを論じていても、そこにナショナル=日本の姿が自ずから浮かび上がってくることに、知的興奮を覚えていました。

63回を数える早稲田社会学会大会の歴史のなかで、沖縄がメインテーマになったのは今回が初めてだったとのこと。
自分が早稲田の大学院にはいり、はじめて沖縄の地に足を踏み入れたのは、1999年8月のことでした。
そこから干支が一回りした2011年7月に、自分がコーディネーターとなって沖縄を議論する場を早稲田で持つことができたことの意味を、深くかみしめたいと思います。


報告者、討論者のみなさま、参加して下さったみなさま、そして裏方として頑張ってくれた事務局や若い院生のみなさま、本当にありがとうございました。