名護市長選挙の分析

【得票数】

稲嶺進(17,950票)

島袋吉和(16,362票)


票差は約1600票。
これを僅差とみるか否かは意見の分かれるところだろう。
投票締め切りと同時に当確報道が出たにしては差がついていないというのが実感だが、過去の市長選と比べてみることで少し客観的に見ていく必要がある。


有権者数が異なる(10年:44,896人、06年:43,144人)であるため単純な比較はできないが、前回選挙で現職の島袋吉和氏が得票した16,764票よりも1200票ほど多いことは注意しておく必要がある。

また、前回選挙では反対派候補が我喜屋氏と大城氏に割れてしまったが、両者の得票をあわせた15,383票から2600票ほど上積みがなされていることも重要だろう。

票差でみても、前回は我喜屋+大城でも約1400票差で負けていたのが、今回は1600票差をつけて勝ったのだから、前回選挙時とくらべて大きな変化があったことは間違いないだろう。


その変化の要因の第一は、やはり民主党政権に変わったことで、島袋氏が振興策を引き出すための国とのパイプを失ったことだろう。

そもそも8月の衆院選では、名護市が含まれる沖縄三区をはじめ、県内の4選挙区すべてで民主党議員が当選している。

三区にいたってはダブルスコアで現職が落選しているのであるから、その時点で島袋氏の再選は困難な状況にあったとみていいだろう。


衆院選の背景にあったのは、自公政権への不信と政権交代への期待という全国レベルでの風潮に加え、名護における独自の理由も考えられる。

それは、島袋氏をとりまく利権集団への不満である。


島袋氏の周りには、2期前の市長であり、現在に至るまで市政への絶大な影響力を持っている比嘉鉄也氏(彼は97年の名護市民投票の結果を踏みにじり、普天間受け入れを決定した人物でもある)と、H社という土建会社が巣くっており、その関係者に北部振興事業をはじめとするさまざまな利権が集中していた。

その状況への不満は、名護市全体に広まっていたといえるだろう。


今回、稲嶺新市長はそこをうまく突いた。

普天間移設問題以降、800億円もの公共投資が名護市にあったにもかかわらず、失業率は増加し、多くの土建会社が倒産している。

それはうまくお金がまわっていないからだ、と主張したのである。


加えて、2006年の談合摘発による談合の禁止と新しい入札制度=実績主義が、土建業界における助け合いを無化してしまい、中小の土建業者が生き残れなくなったという事情もあった。


こうして土建業界の結束は弱まった。
そのことが衆院選での民主党の躍進を生み、そして稲嶺氏への追い風となった。
そしてそれは、辺野古における地殻変動の引き金ともなっていた。


辺野古におきた地殻変動
それは、地元の土建業者であるS社が稲嶺氏を支持したことを指している。

いや、支持しただけではない。
辺野古に置かれた稲嶺氏の久辺三区(辺野古、豊原、久志)合同事務所の会長にS社の社長がついたのだ。


これまで容認の立場にたっていたS社が反対へと立場を変えたことの影響は大きかった。

辺野古内部にも、島袋氏を支持する一部の有力者にばかり利権が集中している状況に対する不満は高まっていた。

そして普天間代替施設の受け入れに反対する意思を持っている住民も多くいた。

そうした人たちが、S社社長の勇気ある行動に引き寄せられたのである。


そうした傾向は、選挙戦の最中にもみられていたという。

だが、実際に目に見えて明らかになったのは、稲嶺氏の当確が出て以降だったように思う。

これまで容認の立場にあった人たちが、一人、また一人と事務所に集まってきて、これまでのことを語り始めたのだ。

そこでは、島袋市政への不満に加え、普天間代替施設を拒絶する理由も語られていた。

それは、まず騒音である。

シュワブにはヘリパッドはあるものの戦闘機の離発着はないので、さほどうるさくはない。

だが普天間代替施設は飛行場だ。その騒音はこれまでの比ではない。


加えて海を埋め立てることへの不満もある。

これまで慣れ親しんできた海をなくすことへの不満は、かなり強いものであったといえるだろう。

しかも辺野古はかつて、シュワブの受け入れによって山を奪われているのである。


ただ、そうして事務所に集まってきた人たちが、なかなか事務所内に足をいれようとしなかったことは付記しておかなければならない。

事務所内に押し寄せたマスコミのカメラに捉えられることを恐れていたのである。


そしてもう1つ、政権交代が及ぼした影響として忘れてはならないのは、ここで反対しなければ普天間代替施設の受け入れがほぼ確定してしまうという危機感の醸成である。

ここにきて辺野古住民は、再び刀の切っ先をのど元につきつけられたのだ。

上述した行政への不満や騒音への懸念を稲嶺氏への投票に最後に結びつけたのは、この危機感だったのではないだろうか。


ある住民が語ってくれたように、今回の選挙は辺野古を含む旧久志村が名護を動かしたのだといえるだろう(1970年に名護町、久志村を含む1市4町が合併して名護市は誕生した)。

それは、稲嶺氏が旧久志村の出身だというだけではない。

辺野古で起きた地殻変動が、他地域に伝播し、新たなる名護市の誕生を後押ししたのである。




名護市人口の8%に過ぎない旧久志村地域が、名護市を動かし、そして日本政府を動かそうとしている。

これまで基地負担を押しつけられてきた辺境の地域からの逆襲がはじまったのである。