母の物語

hirokuma2011-04-23

私の母は、実の母親であるキヨノさんを1歳のときに亡くしている。


母の父親、ヒデジは長崎の生まれなのだが、東北大学に進学して哲学を学んでいるときに、姉を頼って福島から仙台に出ていたキヨノさんと出会い、結ばれた。
2人の男の子に恵まれたが、いずれも夭逝し、最後に生まれたのが私の母であった。


母は昭和18年、福島にあるキヨノさんの実家で生まれた。そして、キヨノさんとともにヒデジの故郷である長崎に向かった。


しかし時は戦時中。長崎は危険だということになり、キヨノさんは再び福島に戻って疎開することを決める。
そして、まさに福島に疎開するべく長崎駅に向かったとき、キヨノさんと母は空襲に遭遇する。
そこでキヨノさんは32歳の若さで亡くなった。
幼かった母は、キヨノさんに守られて生き延びた。
昭和20年4月のことであった。


戦時中のならいで、服に氏名と住所を書いた布を縫い付けていたことから、キヨノさんが亡くなり、乳飲み子であった母が生きていることはすぐにわかった。
その後、おそらく母は長崎の親戚に預けられたのだと思われる。


そして、これもおそらくとしかいえないのだが、この情報は福島のキヨノさんの実家に電報で知らされたのだろう。
キヨノさんの母(つまり母にとっては祖母)ハルさんと、キヨノさんの長兄(同・伯父)キンスケさんは、電車を乗り継いで1週間かけて長崎に母を迎えにきてくれた。
キヨノさんと一緒にいくはずであった福島に、母は疎開していった。
そしてそのまま、終戦を迎えた。
長崎には原子爆弾がおとされた。



どこで終戦を迎えたのかはわからないのだが、とにかく生きのびたヒデジは福島に赴き、母を長崎に連れて帰る。
そのことを母は覚えていないというので、おそらくは終戦後、ほどない頃であったと思われる。


その後ヒデジは再婚する。母も当然、その新しい家族のもとで育てられ、成長していった。
母によれば、比較的幼い頃から、自分の実母が死んでいることを聞かされていたという。
福島に実母の実家があることも、知っていたそうだ。



それから母は2回、福島を訪ねている。

1回目は中学生の頃。
終戦後、哲学を学んでいたはずのヒデジは、どういうわけだか裁判官となり、家族を連れて北海道は帯広に赴任した。
その帯広での任期がおわり、次の勤務地に向かう途中で、福島の実家に寄ったのだ。
そのときのことを、母はおぼろげながら記憶しており、今にして思えば命の恩人であるキンスケさんの写真にも見覚えがあるという。


2回目は20代後半の頃。
東京の大学に進学していた弟たちを訪ねていた母が、急に思い立って福島まで足を伸ばしたのである。

わかっているのは住所だけだったため、何の連絡もとらず、いきなり福島を訪ねたのだという。
我が母ながら、なんと無謀なことをしたものだと思う。
ちょうど4月頃のことであったことから、福島の家では、家庭訪問の先生が来たのかと思ったのだそうだ。



それ以来、40年ほどの間、母は福島を訪ねることはなかった。
結婚し、私と妹が生まれ、忙しく過ごしているうちに、なんとなく行きそびれていたのだと思う。
それに嫁ぎ先は宮崎。
福島はあまりにも遠い。

ただ、年賀状のやりとりだけは続いていた。
福島の実家は、母を長崎まで迎えに来てくれたキンスケさんの息子(つまり母にとってはいとこ)であるヒデオさんが継ぎ、さらに7年前にヒデオさんが亡くなったあとは、その長男ユキオさんが継いでいた。
ユキオさんの家には、ヒデオさんの奥さんであるキイさんもいた。
そして、亡くなったキヨノさんの写真も残されていた。

もう一度たずねてみたい、母の写真をみてみたい、母のことをもっと知りたい。
そう思いながらも、なかなか福島にいく機会はなかった。



そんな折、息子(つまり僕)に娘が産まれた。
産まれてから2日後、母は1人で東京にやってきた。
今年の年賀状には「4月に上京する予定があるので、もしかしたら福島にいくかもしれない」と書いていた。
しかしこの大地震の被害を受けている福島にいくことは、やはりためらわれた。
ただ、年賀状に書いていた以上、連絡だけはいれておこうと思い、福島に電話をいれたところ、「こんなときだからこそぜひいらしてください。キイおばあちゃんも会いたがっています」と、電話に出たユキオさんの奥さんがいってくださった。
その電話での応対がとても暖かいものであったことが、母を後押しした。
宮崎にもどる日を1日ずらし、福島に向かうことに決めた。


仕事から帰る途中でその話を聞いた僕は、家に着く頃にはもう、いっしょに福島にいくことに決めていた。
母の実母が福島の生まれであり、親戚もいるということは知っていたが、これまではそれほど関心をもっていなかった。
というより、自分にとっては、ヒデジが祖父であることはもちろんのこと、祖母はヒデジの再婚相手の方だし、2人の間にできた3人の子どもが叔父さんなのであって、福島の家のほうは、血のつながりからいえば親戚に違いないのだが、そもそも名字すら知らないほどに疎遠な存在であったのだ。

だが、考えるまでもなく、福島は自分のルーツの一端である。
そしてその延長線上に、産まれたばかりの娘がいる。
ならば、そのルーツを確かめておきたい、そう思ったのだ。
東北新幹線も、ちょうど福島駅まで復旧していた。



かくして2011年4月23日、僕と母は福島にむかった。
迎えに来てくれたユキオさんの車でご自宅に連れていっていただくと、キイさんが古い写真を用意して待っていてくれた。

母の実母、キヨノさんの写真もしっかり残っていた。
傍らには若き日の祖父、ヒデジの姿と、そして夭逝した母の兄、サダハルくんの姿があった。
そして別の写真には、キヨノさんに抱かれている、産まれてまもないころの母の姿も残されていた。
写真にうつるキヨノさんの顔は、今の母の顔にどこか似ていた。


続いてお墓にも案内していただいた。
キヨノさんのお墓は長崎にあるのだが、こちらには母を福島に連れ帰ってくれたハルさんとキンスケさんが眠っていた。
お墓があるのは、阿武隈川の近くにある福島市渡利地区。
かつてキヨノさんが母を産み、キヨノさん亡き後、母が連れられてきたところだ。


墓にお花を供え、母は線香を上げ、お参りした。
僕も、産まれたばかりの娘を守ってくれるよう祈った。


その後、ヒデオさんの弟であるヨシオさん(ということはつまり、母のいとこである)にもご家族連れで来ていただき、さらに詳しいことがわかった。
母を福島に連れ帰ってくれたのがハルばあちゃんとキンスケ伯父さんであったことを教えてくれたのはヨシオさんだったし、夭逝したサダハルくんの死因がジフテリアであったこともヨシオさんのおかげで判明した。

ほかにも、ユキオさんの長男や次男家族も集まってくれたので、夜は大宴会となった。
魚市場に勤めるユキオさんがおろしてくれた刺身に舌鼓をうち、越乃寒梅を飲み、親戚のみなさんと話しているうちに、いろいろな想いが去来してきた。


まず、親戚が増えたなということ。
これまで名字すら知らなかった鈴木家のみなさんが、この1日で親戚になった。
「なった」というのはおかしいのだけれど、感覚的には「なった」である。
この鈴木家の皆さんは、ほんとうに情が深く、明るい人たちであった。
そのことがとても嬉しい。


そのおかげで、福島が身近になった。
原発の被害を一身に受けている「フクシマ」でしかなかった福島が、具体的な形をもって立ち現れてきた。


そして最も強く感じているのは、母が生き延びたことの奇跡と、その奇跡を実現させてくれた人たちへの感謝である。

2人の息子を幼くして亡くしたキヨノさんが、身を挺して残してくれた母の命を、ハルばあちゃんとキンスケ伯父さんが命がけで迎えに行き、つないでくれた。
もし2人がきてくれていなかったら、母が生きていた可能性はかなり低まっただろう。
8月9日、長崎は原子爆弾を落とされたのだから。


母が生き延びていなければ、もちろん僕もこの世に存在していない。
そして娘も命を授かることはなかった。
このことを思うと、母を守ってくれたすべての人たちには感謝するよりほかない。


本当にありがとうございます。おかげさまで母は元気です。


こんなすばらしいご先祖様である。
だからきっと、娘も、ちゃんと守ってくれそうな気がしている。