考えて、理解する

本日20日は海の日。お休みです。
が、非常勤先のO大学は休みではありません。
月曜日の授業時間を確保するために休み返上で授業です。
授業を受けるのは学生の権利ですから、やるべきだとは思うのですが、逆にいえば出席は、学生にとって単位を取るための義務なので、そんな義務のために出席させられるのもかわいそう。


とはいえ、ようやく前期の終わりが見えてきました。
先週の金曜日には前期中の必須の課題であった社会調査実習のアンケート用紙作成および送付準備を終えましたし、同じく金曜日には教員人生初となるテストも終えました。
これまではレポートでしか評価していなかったんです。


今回テストにしたのは「社会調査法概論」。概論なのでさすがにレポートにするわけにもいかなかったのです。

テストの形式は穴埋め記述や選択肢問題がメインで、最後に1つ、記述問題を出しておきました。
問題数はやや多めでしたが、手書きの資料のみ持ち込み可にしていたので(勉強をさせるためにこういう手をつかうのです)、ちゃんと勉強をしてきた学生は、おおよそ解けていたようです。


が、残念だったのは記述問題。
出したのは、有権者の投票行動についてのアンケート調査を行うので、仮説を3つたてよ、という問題。

仮説というのは、アンケートの質問を通して検証すべき説のことであり、もっとも抽象化していうと「Xが変化することによって、Yが変化する」という肯定文で表すことができます(このときXを独立変数、Yを従属変数といいます)。
例えば「学歴が異なれば、投票にいく率が異なる」→「学歴が高い人ほど、投票にいく傾向がある」というのが1つの模範解答となるわけです。

この仮説というのはアンケート調査を行う上で大変に重要であり、授業でも何度も何度も何度も説明をし、「仮説をたてさせる問題を出すよ」と事前に公表し、あまつさえ別の問題のところで、『仮説とは「Xが変化することによって、Yが変化する」という肯定文である』という文章まで書いていたのに、疑問文で書かれている回答がでるわでるわ。
「仮説」っていう言葉に、疑問文のイメージがあるんだろうな。。。


なかなか伝わらないもんだなあと自分の力量不足を思い知らされもしましたが、でもちょっと考えればわかることなのになあとも思います。
問題の原点は、高校までの教育が「考える」ことをほとんど生徒に要求していないことにあるのでしょう。
一年生と面談をしていたとき「これまでと違って大学の勉強は内容をどれだけ理解しているかで評価されるので、テスト勉強をどうやればいいかわからない」と質問してきた学生がいました。
この学生が鋭く指摘しているように、高校までの勉強の多くは、理解をすることによって評価されていたのではないのです。
というより理解をしていなくても評価を受けることは可能だったということ。
理解していなくても、特定の物事について覚えれば、あるいはパターンをつかめれば、問題に答えることができる。
問題に答えることができれば、それが評価になり、「理解している」ということになっていたわけです。


でも大学での勉強は、それではダメなんですよね。
だからこそ僕はこれまで、レポートでしか評価をしてこなかったわけです。
テストのための授業なんて、大学生になってまでやる必要はないでしょう、本来なら。


そういいつつも実際に自分も今回テストをやったわけで、それは「社会調査概論」が社会調査士資格取得のための必修科目となっているがゆえに客観的な評価が必要だからなのですが、やはり内心忸怩たるものはあります。


「考える」とは、いったいどういうことなのか?
4年間の大学生活のなかで、学生にこのことをどれだけ「理解」させられるか、教員にはそのことが問われているのだと思います。

社会人養成予備校としての性格を強めている昨今の大学であれば、なおさら。