Sさんのこと

Sさんのこと

 Sさんに初めてあったのは、2003年の11月末頃だったと思う。名護市議のMさんを囲む飲み会に、沖縄タイムスの記者である友人から誘われたときに出会ったのだ。

 Sさんは辺野古在住で、大学は早稲田の文学部を出ている名護市の職員。基地反対運動と地域住民との意識のズレに関心を抱いていた僕は、大学の大先輩でもあるSさんに、辺野古を案内してもらえないかと頼んだところ、じゃあ辺野古社交街に連れていこうね、といって携帯の番号を教えてくれた。

 そして翌週だったか、友人の記者など数名で辺野古の伝説的な老舗バー「テキサス」に、本当に連れていってくれた。

 次にあったのは翌2004年の夏。ちゃんと辺野古の住民に聞き取り調査をしたいと思い、再び名護を訪れた僕は、もう忘れているかもしれないな、と思いながら、仕事がおわる5時過ぎを待ってSさんの携帯に電話をかけた。

 名前を名乗ったところ、いま市役所の近くにある飲み屋で飲んでいるからそこにおいでという。さっそく飲み屋に向かって改めて挨拶をしたのだが、残念ながらというか、やはりというか、Sさんは僕のことを覚えていなかった。

 ただ、後で聞いたことなのだけれど、Sさんはこの頃、辺野古のことを調査したいと本土からやってきた学生を主人公にした小説を書いてみたいと思っていたのだそうだ。「それが本当にやってきた」、と、Sさんは笑って話してくれた。

 最初の飲み屋を早々に出た後、Sさんは何も言わずに辺野古へとタクシーを走らせ、米軍関係者ばかりが集まっているバーに連れていってくれた。そこでSさんのボトルであるワイルド・ターキーを飲みながら、Sさんといろんなことを話した。時折、顔見知りの米兵がやってきて、いっしょにバーボンを酌み交わしたりもした。

 べろべろに酔っぱらった自分は、Sさんの自宅に泊まらせてもらった。そしてそのまま二週間近く、泊まらせてもらうことになったのである。

 Sさん宅に滞在している間、Sさんは、辺野古の人たちを紹介してくれたり、辺野古住民運動組織である「命を守る会」で活動をしていた頃の話をしてくれたり、なによりあちこち飲みに連れていってもらった。

 そして、僕が辺野古を歩き、聞き取りをして感じたことを、毎晩きいてくれた。そこで肯定してくれたり、意見をいってくれたことが、どれだけ自信になったことだろう。

 それからは、辺野古に行く度にSさん宅に宿泊させてもらった。Sさんが出張などで東京に来たときにも何度もお会いして、ごちそうになった。僕の研究に役立ちそうな本や雑誌をわざわざ送ってくれることもあったし、僕も論文や本を書く度にSさんに送った。

 Sさんは、ひじょうに聡明な方である。知識も豊富で、「琉球人はどこからきたのか」について、人類学的知識から文明論にいたるまで、あらゆる知を用いながら熱っぽく語ってくれた。早稲田大学琉球・沖縄研究所の研究紀要に論文として投稿したいともいっていた。

 ただ、その聡明さゆえに、やや上の方から物事を見下ろしているところがあった。その断定的な口調を、ときどき疎ましく思ったことも正直あった。でもだからといって、話をきくのが嫌になったことは一度もない。そこに悪意はなかったし、なにより話がおもしろいからだ。

 そのSさんが昨年末、体調を崩されて入院した。そのことを僕は、2月に沖縄に来てから知った。それも、まったくSさんとは関係のないことをネットで調べていたとき、偶然にSさんが入院されたことを知ったのだ。

 しかもそこには、あまり思わしくない旨のことが書いてあった。

 今回もSさんに会って、泡盛をのみながら話を伺おうと思っていたので、東京にいるときから何度かSさんの携帯に電話をかけていたのだが、コールはするのだけれど出てくれない。まあ忙しいのだろうと思っていたのだが、そうではない、出られなかったのである。

 Sさんとは、前年の11月17日に東京で会っていた。その日は学会での発表があったのでよく覚えている。学会がおわったその足で銀座にいき、そこでしゃぶしゃぶを食べたのだ。

 そのときは何も変わった様子などなかったように思う。だから、入院している、危険な状態にあるなんてこと、俄には信じられなかった。実感がまったく湧いてこないのだ。

 ご自宅に電話をかけたところ、奥様が出られた。名護の大きな病院に入院しているとのことだったので、前日から宿泊していた那覇のホテルをキャンセルし、車で名護に向かった。車を運転しながら、泣けて泣けてしょうがなかった。自分はいったいこれまで何をしていたんだ、そんな思いがこみ上げてきては泣いた。上空を飛ぶ米軍機が憎らしくて仕方がなかった。

 病院にいくまえに、沖縄タイムス北部支社にたちより、Sさんと懇意にしていた記者のCさんから詳しい話を聞いた。意識もあって、少しなら話もできると聞き、幾分ほっとした。

 Cさんは、1月の末に、Sさんに関する小さな記事を書いていた。名護にある小さな山に、毎年1月、1つの漢字が浮かび上がる。地元の中学の卒業生が、成人式にあわせて漢字を1文字選び、ライトで照らしているのだ。

 この行事にSさんがずっと関わっていたことを、僕はこの日、はじめて知った。Sさんが入院している部屋からも、この文字はよく見えるそうで、Sさんも楽しみに見ているのだという。

 今年の漢字は「道」。Cさんたちの働きかけにより、本来であれば2月3日までで終わる予定だったのを、延長することが決まったそうだ。

 病院についた。

 Sさんの名前が書いてある個室の扉には、面会謝絶の札がかかっていた。ナースの方に来訪した旨を伝えてもらうと、個室から奥様が出てこられた。いまちょうど起きているということだったので、入らせてもらった。一番下の息子さんも付き添っていた。

 Sさんは僕を認めると、手を差し出してきた。僕は、Sさんの手を握った。Sさんはちゃんと握りかえしてくれた。昨日那覇について、今日名護に来ましたといったら、奥様にしか聞き取れない声で「ここは名護だよ」といった。

 そう、ここは名護だ。最初に診察を受けた那覇の病院で止められたのを振り切ってまで帰ってきた、Sさんが生まれ、育ち、働き、闘ってきた、名護だ。

 病室の壁には、東京でラクロスに打ち込んでいるご長男の写真や家族の写真がたくさん貼ってあった。Sさんがそうしてくれと家族に頼んだのだそうだ。

 何を話しても涙が出そうで、「原稿、まってますよ」くらいのことしかいえなかった僕は、また来ますといって病室を出ようとした。

 すると、Sさんがまた手を差し出してくる。その手を握ったときが限界だった。涙をみられぬよう、手を離した後は振り返らずに病室を出た。出るとき、ずっと雑誌を見ていた息子さんが「ありがとうございました」といってくれた。振り返らず、頭を少し下げて病室を出た僕は、声を立てずに泣いた。泣きながら病院を出て、車にはいってから、声をあげて泣いた。哀しくて、悔しくて、泣いた。

 タイムスの記者、Cさんは、「また仕事をしてほしいなんて言わない。ただ、いてくれるだけでいい。存在感の大きな人だから」といっていた。

 僕も同じ気持ちだ。もっと生きていてほしい。ただ、生きていてほしい。生きて、僕らのことを、その大きな体と、小さな目で、ただ見ていてほしい。

     2008年2月5日 辺野古にて