接続可能性と「賭け金」としての個人情報

賢明な「くまよむ」読者さんは気づかれていたかもしれませんが、先日、2005年5月1日の日記を巡って、ちょっとしたやり取りがありました。

この日の日記は、NHK教育「芸術劇場」で放映された、サイモン・ラトル指揮『カルミナ・ブラーナ』についてのものでしたが、このときの映像がどうしてもみたいという「しんじ」さんという方から、まだ映像をもっていたらぜひともみせて頂きたいという旨のコメントが書き込まれていたのです。

まったく見ず知らずの方からの依頼ではありましたが、ご自身のメールアドレスを記載されていることと、アクセス解析した結果、「カルミナ&録画」で検索したうえで当該日記にたどり着いたことがわかりました。
そこで、これは本当にみたいと思っているのだと判断し、連絡をとることにしました。番組がHDDに残っていることは、もちろん確認したうえで。

結局、いくつかのメールのやり取りを経て、僕は「しんじ」さんにDVDを送りました(あくまでも個人的に鑑賞するためのものとして)。

そこで思ったのは、情報に接続が可能であるということは、その情報、ひいては情報の元ネタ(今回の場合はカルミナの映像)を共有していることと、可能性としては同義であるということ。
こういう話は、きっとWeb2.0関係の本のどこかで言われていることだとは思いますが、自分が実際に体験してみて、それはありうることなのだなと実感したわけです。

そして、そこで重要なのは「信頼」。接続可能性は無限ともいえる広がりがあるわけで、ということは接続する可能性のある人も無限大である以上、その特定の誰かと直接的な接続をするためには、相手への信頼が必要不可欠。逆を言えば、特定の誰かと直接的な接続をしたい人は、その相手に信頼してもらわなければならない。

そこで「賭け金」になるのは、個人情報なんですね。接続を求められた側(今回の場合は僕ですね)からすれば、接続を試みてきた相手と接続することは、自分の個人情報を提供することになるわけで、そこにコミュニケーションへのためらいが生まれるわけです。だから、「しんじ」さんは、まず最初に自分のメールアドレスという個人情報を「賭け金」としてベットし、「親」である僕の出方を待ったのではないかと思います。
もちろん、連絡手段として提示したという面もあるのでしょうが、連絡はブログのコメント欄でのやり取りを通してもできるわけですよね。
それなのに「しんじ」さんは、メールアドレスを書き込んだ。それを見て僕は、相手の「本気さ」を感じ、「しんじ」さんを信頼してメールをおくったわけです。

とまれ、ネットのない時代にはこういう形での情報の共有というのはなかったわけで、ちょっと自分もWEB2.0な感じを味わった、なかなかおもしろい経験でした。