実証と、発想と

郷里の先輩で、歴史学(日本近世史)を専攻している研究者がいる。その方と話をしていていつも思うのは、発想を実証していくことの困難さだ。


歴史学は、基本的には実証主義に基づいている。そして歴史学における実証とは、すなわち歴史的な資料=史料に基づいた論証である。問題はその史料が増えることがないということだ。もちろん、埋もれていた史料が発見されるということはある。しかし、過去において残されていなかったものを、現在新たに創り出すわけにはいかない。そんなことをしたらそれは偽造である。


だから歴史学者は、限られた史料のなかから、自分の発想を論証していかなくてはならない。そこで歴史学者は、大きな問題にぶつかる。手に入れた史料をどこまで解釈してよいのか、という問題だ。史料が限られている以上、ある程度の史料の解釈は不可欠である。しかし、解釈をやりすぎると、「史料からはそこまではいえない」とされ、論の根拠としては認めてもらえない可能性がある。しかも認めてくれるかどうかは、その論文を読んだ人の「解釈」なので、実に不安定な境遇にさらされているのだ。


だから、無難な論文を書こうとする(そして査読誌に採用してもらう)ならば、史料からわかることだけを書くという消極策に出なければならない。しかしそれでは、おもしろくない。「自分はこういうことがいいたいのに」という「発想」の部分をひた隠しにした論文は、人が読んでもつまらないし、自分だって書きたくないだろう。


このように、歴史学における実証は、大変な困難に満ちている。それなのに学問的には、史料に基づいた実証をすることが要求されるのだ。研究者はたまったものではないだろう。


さらにもっとやっかいなのは、構築主義の存在だ。構築主義の立場からは、史料自体の実証能力を疑わざるを得ない。史料もまた、構築されたものにすぎないからだ。こうなると、実証をするという行為そのものが否定されてしまうことになる。


「じゃあ構築主義は何をいえるのか」というツッコミは実にまっとうなツッコミで、だからこそ歴史学の中で構築主義を唱えることは、ひじょうに危険だと思う。しかし同時に、史料に基づいた実証にこだわる歴史学の学問体系を柔軟にする可能性も否定はできない。社会学を学ぶ者としては、両者が手を結ぶことができれば、学問的には大きく発展するのではないかとも、部外者的発想ではあるが思う。


ではこういう問題は社会学にはないのか、と問われれば、それはやはりあるのである。広い意味での社会調査の成果をどう実証に用いていくのかという課題は、歴史学が抱えている課題と同じである。ただ大きく違うのは、社会学は社会調査を実施することによって資料を創り出すことができるが、歴史学は史料を創り出すことができないという点である。


ともあれ、社会学の視点から見ると、歴史学は不自由なところが多いなと感じる。でもその不自由さのなかで生み出された、発想と実証とが見事に結びついた論文は、ひじょうにおもしろい。それはよくできた社会学の論文を読んで感じる感動と同じである。


もっと学問の垣根をこえて、おもしろい論文が量産されるようになれば、学問の世界ももっとおもしろくなるのではないだろうか。