女子の「正解」

女性たちには有名だけど、ほとんどの男性にとっては聞いたこともない、という人たちがいる。
女性誌のモデルのことだ。突然テレビでよくみかけるようになったきれいな女の子の多くは、モデルさんだったりする。あるいは、かつてよくテレビで見ていた人が、女性誌の専属モデルとしてあらたな境地を開いていたりすることもある。


もともと髪型や化粧が違うだけで顔の同定があやしくなる僕からみれば、女性誌にでてくるモデルさんは全部同じに見えてしまうのだけれど、女子のあいだではもちろんちゃんと区別されていて、それぞれにキャラづけもされているようだ。


今週号の「AERA」で、その女性誌のなかでもズバ抜けた販売部数(55万部!)を誇る「CanCam」が、専属モデルの蛯原友里とあわせて特集されていた。
女性誌・モデル・ブランドの強力タッグが世の女子たちの財布からお金を巻き上げていく―というと聞こえが悪いな。だって満足のいく消費の在り方が読者にキチンと提供されているのだから―さまが紹介されていてなかなかに面白い記事だったのだが、出色だったのは「マガジン百名山」なる、女性誌の批評を中心としたコラムをAERAに寄稿している中沢明子というライターのCanCam評。


中沢氏はいう。CanCamは「女子道の正解」を作っている。そしてその「正解」がここ数年、「無難にかわいく」になっているのだと。

実際、CanCamやJJ、ViViなどの、女の子らしく華やかな「赤文字系雑誌」(たぶん、雑誌のタイトルが赤系の文字で印刷されてるからそう呼ばれるのだと思う)を読んでいる女子たちは、人とムダにぶつからず、リスキーな行動もとらない、上手にふわりと世の中を渡るバランス感覚を身につけた、賢くて柔軟な「大人」が多いそうだ。


55万部も売れている雑誌で紹介されている服やアクセサリーが、色も組み合わせもまったくそのままに売られ、買われているという、どう考えてもコスプレだとしか思えない状況は、そこで紹介されているものが「かわいい」から、というだけでは説明がつかない。キーワードは「無難」。みんながいいと思っているものだから、それを着ておけば、浮き上がることもなく、沈み込んでしまうこともなく、波風立てずに無難に生きていけるのだ。しかも、それがちゃんと「かわいい」のだから、そりゃあ売れるでしょうよ。


しかもAERA記事によれば、この「かわいさ」は、男に媚びるかわいさではなく、女の子の「かわいらしくありたい」という願望を充たすために提供されている「かわいさ」なのだとか。だから女の子ウケがいいし、だからこそ「無難」なのだろう。同性のなかでうまくやっていってこそ、無難ってもんです。


このCanCam、ターゲットはおそらく大学生から20代半ばくらいまでの雑誌なのだろうけど、もう少し上の層向けに出した通称「姉Can」が、これまた20万部売れたそうな。「Oggi」に出てくるようなキャリアウーマンではなく、仕事もできるけどかわいらしさも忘れていない「イイ女かわいい」を目指せ、とあおる雑誌が、うれまくりなのです。近い将来、「オバCan」が出てきてもおかしくないですね。


僕らの世代か少し上の世代の女性たちは、「女性はおとなしく、ひかえめに」という親世代の価値観と、男女は平等であるべきという価値観とのはざまにおかされ、かつ女子大生ブームや女子高生ブームのように、「消費される自己」としての自分を積極的にうちだすことも許されている―というより強制されている―ひじょうに微妙な位置にいるのではないかと思う。

これに対していまの若い世代の女性たちは、無難にふるまうことへの抵抗が随分と薄れているのではないだろうか。外側だけ無難にしておけば、内側の自分自身を守りながら、生きやすい人生を送ることができる、そういう使い分けがうまくなっているし、それを非難されることもない。かくして街にはCanCamに満ちあふれ、街自体がCanCamになっていく。


個人的には、コンサバな感じの人、苦手です。見てる分にはいいけど、つきあうのは・・・でも、見た目がコンサバでも中身はコンサバじゃない、っていう女性が増えているので、見た目では判断できませんね。


「お前に判断されんでもいい」、という声が聞こえてきそうだけど。