誰が彼を殺したのか

2006年3月27日午後6時50分、前名護市長、岸本建男氏が死去した。62歳の若さだった。


このことを知ったのは、翌日の夜、沖縄関係の研究会の場だった。もちろん地元紙のホームページにもこの情報は掲載されていたのだが、朝から仕事にでていたため知らなかったのだ。


研究会のメンバーから「岸本さん亡くなったね」といわれたとき、はじめはなんのことやらわからなかった。たしかに以前より体調がよくないという噂は聞いていたのだが、まさかこんなに早く亡くなるとは思ってもいなかったからだ。およそ2ヶ月前に実施された名護市長選挙では、彼の後継者である島袋氏の当選に向けて、市内のあちこちで応援演説をしていたという話をきいていたので、まだ大丈夫なのだろうと思っていた。


早稲田大学に学び、政治経済学部の大学院をでた岸本氏は、渡具知革新市政下の名護市役所に1973年入庁。地方であることを逆手にとって、ハコモノに頼ることのない自立した地域経済の確立を目指す「逆格差論」をとなえ、一坪反戦地主でもあった彼が、なぜ「普天間基地の受け入れ」という選択をしたのか。


これを「変節」の一言で片づけてしまうこともできる。しかし、そんな「裏切り者」のニュアンスを含む表現で彼のことを語るのは、あまりに表面的で、あまりに危険で、あまりに残酷だ。


研究会の帰り、偶然あったインドネシアからの留学生Nさんは、かつて名護市にある名桜大学で学んでいたことがある。彼女はきょう、泣いていた。父とも慕う岸本氏が亡くなったからだ。


研究会のあと、食事をしているときに友人の携帯に電話をかけてきたのは、仕事のために研究会にでられなかった名護市出身の女性だった。彼女は、どうしても岸本氏の死について語りたいと、忙しいさなか高田馬場までやってきた。彼女は「やるせないねぇ、はがゆい、っていうより、やるせない」と、彼の死を悼んだ。


岸本氏は、反戦の心を悪魔に売り渡した裏切り者なのか?


そうではない、と思う。彼は、名護を思うがゆえに、普天間基地受け入れという悪魔の実を食べ、自らの身をすりへらしながら、名護の未来のための基盤をつくろうとしていたのだと思う。

名護の現在、そして未来のために、辺野古の未来を担保にいれる。その判断が正しいとはいわない。他のやり方もあったかもしれない。けれども、基地を受け入れるという選択肢が、唯一の取りうる選択肢であるということを信じさせるだけの現状が、名護にはあった。だからこそ彼は、受け入れという道を選んだ、いや、選ばざるを得なかったのだ。


今日の研究会で報告をしたKくんが取り上げていたのは、謝花昇だった。彼は謝花を評してこうかいていた。

「謝花の悲劇は、国家に頼り、国家にすがったにも関わらず、報われなかった点にある。なぜならば、国家に頼りながらも報われないという歴史が、近代沖縄を貫いているからである」

沖縄を救うために、日本人にならなければならないという思いで活動をしていた謝花は、沖縄からも、日本からも疎外され、発狂して死んだ。沖縄を救うという目的を実現するためには、沖縄人であることを辞めなければならない、この、目的と手段との乖離が、謝花の、そして沖縄の悲劇だとするならば、それは岸本氏の悲劇であり、名護の悲劇でもあろう。


誰 が 彼 を 殺 し た の か 。


Kくんは、レジュメの最後をこうしめくくっている。

「しかし、国家に頼らない、国家を相対化する思想もまた、沖縄には内在している。・・・これらの思想が沖縄の将来を考える上で重要となる。」


沖縄に悲劇を繰り返さないための思想を、もっと鍛えていかなければならない。岸本氏の冥福を祈るかわりに。