失われゆく技術

僕自身は手先が不器用なのだけれど、父親の家系は器用な人が多い。
祖父は紳士服の仕立屋だったし、長男およびその息子達へと店はうけ継がれている。従弟にはデザイナーがいるし、何より父親自身が器用。昔は年賀状を多色刷りの版画でつくっていたし、今は篆刻をやっている。


そんな父親の叔父(僕からみれば大叔父)の家は、代々はんこ屋をやっている。そこも息子が継いでいて、息子はなんとか一級とかなんとか技能賞などをもらっている、腕の確かな職人である。商店街の青年部長みたいなこともやっていて、なかなかのやり手だ。


さっき、何の気なしに件のはんこ屋はどうなっているのか父親に尋ねてみた。すると、店は開けているのだけれど、本人は別のところで働いており、印鑑の注文があったときにだけ彫るようにしているのだという。


たしかにいま、印鑑を彫ってもらう機会は少なくなってきた。認め印なら100均でうってるし、認め印を銀行印などにすることへの抵抗って、薄れてきているんじゃないだろうか。それにそもそも、印鑑の「彫りの良さ」がわかる人が、減っているように思う。そうなると、「いい印鑑を彫る技術」それ自体が、商品価値をなくしてしまい、「宝の持ち腐れ」という状態が社会的につくりだされる。機械彫りの、安くて早くできる印鑑のほうが商品価値としては高くなってしまうのだから。


そういう形で失われつつある、あるいはもうすでに失われてしまった技術は、きっとたくさんあるはずだ。従弟が継いだ紳士服の仕立屋も、いまではセミオーダーがメインだという。それでも、吊し売り(洋服の○山とか紳士服のコナ○とか)に押され気味で、なかなかに苦しいようだ。そうなると、仕立ての技術もまた、失われていってしまうのかもしれない。


新しくするとか、改善するということに対しては、無条件に価値を見いだす現代。残す、ということへの関心は、ほうっておいてはうまれてこない。しかし、失われてしまったものを取り戻すには、ものすごい時間がかかる。そしてそれは、完全なものにはなり得ない。


何か手を打たなければ、と、切実に思う。