所有と環境に関する覚え書き

いま、所有が熱い!

・・・といっても、とにかく所有しまくろうという、高度経済成長期のころのような、あるいはオイルショックのときのトイレットペーパー買い占めのような熱さをいってるわけではありません。

「所有」をめぐる議論が熱いのです。

僕は環境社会学を1つの専門分野にしておりますが、環境社会学では「所有」ないしは「所有権」に、昔から関心を寄せてきました。

なぜなら、ある環境を利用し、そこから収穫を得たり、そこに家を建てたりすることができるのは、その環境を所有している人や集団だから。つまり、人間と環境との関係性を考察するためには、所有という行為に付随しているさまざまな権利について、しっかりと理解しておく必要があるのです。

そんな中、環境社会学会という学会が出している学会誌、『環境社会学研究』の最新刊(11号)に、東大の松井健先生が「所有の外延についての比較社会誌的覚え書き」という論文を寄せていました。

これが、実におもしろい。

松井先生は、所有権に処分権、使用権、収益権のすべてを与えているのは、近代的な法制度に特有のことであるということをまず指摘します。
つまり、あるモノを捨てたり、売ったり、使ったり、あるいはそうしたモノへの働きかけを通して生み出された利益を獲得したりすることができるのは、そのモノの所有権を持っている人だ、という、現代日本に生まれ育っている人であれば「あたりまえやん、そんなこと」と思う当然のことは、実は近代的な法制度が支えていることなのだといっているわけです。

そういうふうにいっているということは、近代的な法制度の適用されていない社会においては、必ずしもそうじゃないよ、という話が後に続くわけですが、そうした例の1つとしてあげられている、「ブッシュマン」と呼びならわされてきたアフリカの狩猟採集民の、獲物の所有に関する権利関係の話が、すごく興味深いのです。

ブッシュマンは、狩猟をとおして得られた獲物を、キャンプの成員間でまったく平等に分配する。獲物を仕留めた人には、たくさん肉をもらえるとか、そういう特権は与えられていない。そうしなければ、それほど頻繁には手に入れることのできない貴重な動物の肉が、すべての成員に行き渡らないからだ。

しかし、心情的には、獲物はやっぱり仕留めた人のものだという気持ちが出てくるのが、近代的な社会の中では普通の感覚だろう。しかしかれらは、そうした感情を抑える、というより、起こさせないようにするための仕組みを、独特の所有関係を通して作り上げた。

Q.ブッシュマンたちは、獲物の所有権を誰に与えているか?

A.射止めるのに用いた矢をつくった人。

つまり、獲物を仕留めた人ではなく、矢をつくった人が、その獲物の所有者になるのである。

そしてさらにおもしろいのは、狩りに出かけた男たちが、きわめて頻繁に矢を交換し合うという独特の行動。ということは、ある人がつくった1本の矢は、つぎつぎと持ち主を変えていくことになる。そうすることで、誰か特定の腕の良い狩人が、腕の良い矢づくり職人と結託して、獲物を独占するような事態を避けることができるのである。

この独特の所有関係は、獲物の所有を狩人から遠ざけることを可能にしているといえよう。そしてまた、矢をつくった人も、直接に獲物を仕留めたわけではないのだから、やはり所有の感覚は薄い。つまり、獲物との距離は、あらゆる成員にとって遠くなるように設計されているのである。

こうして、すべての成員から所有を遠ざけることによって、獲物に対する処分や利用や収益といった諸権利もまた、すべての成員から権利的にも、感情的にも、遠ざけられている。だからこそ、平等な分配が可能になるのである。

こうしたシステムは、希少な資源である動物という財が、特定の個人ないしはグループに集中することによって貧富の差を形成しないようにするための、ブッシュマンの知恵だと推測できる。集団としての存続可能性を高めるためには、貧富の差が形成されない方がよいのである。

所有権を曖昧にすることによって、その処分や利用や収益もまた曖昧になった。そしてそのことによって、ブッシュマンは平等な財の分配を実現した。
これは、裏返してみれば、不平等な社会の形成を促進しているのは、処分も利用も収益もすべて認めるという、近代法システムにおける強力な所有権であるということを示しているのである。

もちろん、今の日本にブッシュマン的な所有関係を持ち込むわけにはいかない。ただ、こういう事例は、「所有」という行為の意味について再考を迫る、いい機会だと思う。そして、所有権に対してある程度の制限をかけていくことは、環境を守り、持続可能な社会をつくりあげていくためには、不可欠の作業なのである。