よい論文がかきたい

ひさびさの更新。このあいだまで論文執筆におわれていたため、書く暇もなかったし、書く気にもならなかったのです。

さて、その論文の内容ですが、僕がずっとかかわり続けてきている普天間基地移設問題についてのものです。辺野古の住民が、ほんとうは基地なんてきてほしくないのにもかかわらず、なかなか表立って反対を主張できなくなる理由について、現在の経済状況や、過去において辺野古キャンプ・シュワブという海兵隊の基地を受け入れたことが現在の状況に及ぼしている影響などについて触れながら考察しました。

  閑話休題

フィールドワークに基づいた論文をかくときにいつも考えるのは、自分の研究が、調査した地域に与える影響について。特に、普天間基地移設問題のような現在進行形の事例を扱う際には、いろいろと慎重にならざるをえない。もちろん学会誌への投稿論文なんて、そんなにたくさんの人たちが読むものでもないし、わざわざ郵送でもしない限り調査地の住民の目に触れるものではないのだけれど。でも、そのことへの意識がなくなってしまったら、研究論文というものはひじょうに自己目的的なものでしかなくなってしまう。

研究上の業績をあげるためには、論文を書くことが必要なわけで、だからこそ時間とお金をかけて調査にいって、いろんな人の時間を頂戴しながらいろいろ話をきいたり資料を集めたりするのだ。その意味では論文を書くという作業は、ひじょうに自己目的的なところがあるわけで、このことをもって「研究者によるフィールドの搾取」などといわれることすらある。

この、本来的に自己目的的な産物であるところの「研究論文」なるものが、どうすれば「搾取」ではなくなるのか。「論文をかくことで調査地の住民のお役に立てることがあるはず」と、ナイーブに夢想したところで、その危険を免れることはできない。搾取にならないように、そろりそろりと、周りを伺いながら書いていくことでしか、免れることはかなわないのかもしれない。でも、そんな論文は、たぶんつまらないものになるだろうし、学会誌には掲載されそうにもない。

結局は、調査にいった地域に対する愛情なのかな、と思う。

愛情を抱け、といったところで抱けるものではないが、調査を続ける中で自然と愛情がうまれてくるようになったころに書いたものであれば、そんなに的外れなものにはならないのではないだろうか。愛情があれば、地域の人たちを傷つけるようなことはしたくないと思うだろうし、逆に「ここまで踏み込んでも傷つけることはない」というラインが見えてくるようになれば、それなりにおもしろいものに仕上がるのではないかと思う。



僕は辺野古に対して愛情をもっているか。


もっている。片思いかもしれないけれど。