ふつうのひとたちのふつうのにちじょうの撹乱

朝日新聞の今日の朝刊、「キーワードで考える戦後60年」で、ノーマ・フィールド氏がインタビューにこたえている。そのなかに、なるほどなぁという記述があった。

氏は、「日本では国民の圧倒的多数が、自分は経済的成功を遂げた国家の一員だと信じる社会」だとしたうえで、そういう意識は、日常にひそむ抑圧を告発する個人に対して、「私は黙ってこの日常を生きているのに」という迷惑意識を生み出すのだという。

そのことがみられたのは、沖縄で開催された国体で日の丸を焼いた知花昌一さんへの「それでも日本人か」という批判であり、去年イラクで人質になった3人へのバッシングだった。

「3人は身近でないイラク人に共感し、個として行動した。それは、無意識の日常を生きたい人々には迷惑なことだった。」

氏の指摘は、こうした個人の圧殺の理由のすべてではないとしても、一面の真理をついていると思う。

このままではいけないと思いながらも、思い切った変革をするのは不安なので、目の前の問題から目をそむけようとする、そういう日本人、多いと思う。自分も含めて。だから、改革してくれそうな小泉さんの人気は高まるのだけれど、改革の中身についての議論はなされないし、好まない。別にここで、小泉さんの批判をするつもりはない。郵政民営化にせよなんにせよ、その中身についての議論がなされていないという状況はよろしくないということをいいたいだけだ。

ともかく、そういう感じなので、明確な意志をもって行動する個人というのは、目の上のたんこぶのようにうつるのではないだろうか。平和運動などをしている人たちに対してそそがれる、「ふつうのひとたち」の視線に、そういう意識を感じることがある。そのような意識が、ときおり、特定のめだった異分子に対して、「ふつうの人たちのなかにひそむ悪意」となって、集中砲火を浴びせかける。

氏は、イラク人の協力者と連携しながら3人の人質の解放の道を模索した市民グループの「草の根の連帯」に、希望を見出している。ただ、そういう市民グループに対しても、「ふつうの人たち」の迷惑意識は向けられているように思う。

とかく、この国で個人を貫くことは、難しい。