過去の世代との対話 〜その2〜

6/22のつづき


もうひとりのおじは、現在60代後半。このおじ夫婦のおかげで僕の両親は出会い、結婚した。その意味で「命の恩人」である。


とはいっても、普段はほとんど接することのない親戚。場が持たないので、つい、「もう悠々自適の生活?」と問いかけたら「仕事がなくて暇なだけ!」とかえされ、そこから昔、バリバリ仕事をしていたころの話が始まる。


おじはかつて、日立建機につとめていた、バリバリの営業マン。大型の機械を次々と売りつけていった。全総新全総とつづく時代の要請もあり、おじの仕事は順調だった。


圧巻は長崎営業所時代。長崎といえば、三菱の王国。ここに乗り込んでいったおじは、ばりばり日立の機械を売りつけ、ついに長崎でのシェアを30%近くまで伸ばし、日立をトップシェア企業にまでおしあげたのだ。


しかしこのころから、おじの仕事にもかげりが見え始める。シェアをそこまで伸ばすと、要請されるのは「売りつけること」ではなく「管理すること」になる。しかしおじはバリバリの営業マン。管理調整の仕事には向いていなかった。そうしておじは、徐々に居場所を失い始め、結局会社を辞めてしまうのである。その後は着物を売ったり、浄水器を売ったりと、おじは営業の仕事を貫いていく。僕の記憶にあるのは、このころの姿。正直、あやしいもの売ってるなぁと思っていたのだけど、その裏にはこんな話が眠っていた。


ひとつの時代の話を聞いたな、そう思った。おじのような、押しの強い、シャカリキな営業が通用した、そして求められていた、そういう時代があったのである。それだけ商品の多様性がなかったということだろうし、それだけ商品がもとめられていた時代だったのだろう。ある意味、今よりも純粋な需要−供給の関係があり、今よりも純粋な営業が求められていたのだと思う。


そんな時代の中で、おじはシャカリキに時代を駈け抜けていったのだろう。当時のことを話していたときのおじは、いきいきとしていた。記憶を継承するとか、そういうことではなく、純粋に、もっともっと時代の話を聞きたい、そして話してもらいたい、そう思った。