リアルの喪失、リアルの継承

ひめゆりの証言「退屈」/東京の私立高入試問題

 東京の私立進学校青山学院高等部が今年二月に実施した入学試験の英語科目で、元ひめゆり学徒の沖縄戦に関する証言が「退屈で、飽きてしまった」との英文を出題していたことが九日までに、分かった。生徒の感想文の体裁になっているが、教員が試験のために書き下ろした。元ひめゆり学徒らは「つらい体験を明かしている語り部をむち打つもの」と憤った。同校は「大変申し訳ない」と謝罪している。
 英文は三種類の入試のうち一般入試で出題され、千五十七人が受験した。「修学旅行で沖縄に来た生徒」の感想文を読んで、設問に答える形になっている。

 英文の中で、「生徒」は壕に入って暗闇を体験した後、ひめゆり平和祈念資料館で語り部の証言を聞く。「正直に言うと彼女の証言は退屈で、私は飽きてしまった。彼女が話せば話すほど、洞窟で受けた強い印象を忘れてしまった」と記した。

 さらに、「彼女は繰り返し、いろんな場所でこの証言をしてきて、話し方が上手になり過ぎていた」などと“論評”。設問では、「生徒」がなぜ語り部の話を気に入らなかったのかを問い、選択肢から正解として「彼女の話し方が好きではなかったから」を選ばせるようになっている(以下省略)。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200506091700_01.html


 

昨日の沖縄タイムス夕刊トップにのったこの事件、今日は全国紙もとりあげ、ニュースでも報道されていた。先月、沖縄戦の記憶の継承について研究されている方の報告をきいたばっかりだったということもあり、僕もこのニュースには衝撃を受けた。

 

この事件にはいくつかの問題点がある。まずはなんといっても語り部の証言を「話し方が上手になりすぎていた」ために「退屈で、飽きてしまった」と評するその権力的な視座。なぜ元ひめゆり学徒が、思い出すのも嫌であろう「つらい体験」を語るのか。その理由のうちもっとも大きなものとして、「二度と自分と同じようなつらい体験をする人が生まれてほしくない」というきもちがあるといえよう。そのつらい話を聞きに来た者が、まるで「聞かされた」かのような態度を示し、「退屈」だと断ずるその傲慢さ、無反省性には、他者と関係を結ぶために必要な何かが欠如しているように思える。

 

そしてもう1つ気になったのは、「洞窟で受けた強い印象を忘れてしまった」という記述。洞窟とは、おそらくは防空壕=ガマのことであろう。そしておそらくこの先生は、ガマの中で明かりを消して完全な暗闇をつくりだすことで、沖縄戦追体験する「暗闇体験」をしたのだろう。そこでこの先生は、「強い印象」を受けたのだと思われる。

 


「記憶の継承」といったとき、継承されるのはなんだろうか。僕はとりあえずここで、それは「リアル」だとしておく。「沖縄戦の記憶」を継承する、それは、沖縄戦を経験していない人たちに「沖縄戦のリアル」をいかにして伝え残していくのかということ。そのために、沖縄戦を経験した元ひめゆり学徒は、自分たちにとってのリアルとしての沖縄戦について語る。平和ガイドは、ガマのなかで「暗闇体験」をしてもらう。

この英語の問題をつくった先生は、暗闇経験という、沖縄戦追体験する行為にリアルを感じ、沖縄戦を体験した人の語りにはリアルを感じなかった。何をリアルと感じるかは個人個人で違うだろう。だから、元学徒の話にリアルを感じなかったことは、それ自体は問題ではないのかもしれない。だがしかし、なぜ元学徒は思い出したくもない沖縄戦のリアルを語るのか、そしてなぜ自分たちはその語りを聞いているのか、そのことの意味を考えることなく、ただ受動的に、他者の経験を消費しようとするだけという態度は、問題である。そういう態度で臨んでいるから、こんな無神経な問題文ができてしまうのだ

 

可能な限り善意に解釈するならば、この作問をした先生は、「このままでは沖縄戦のリアルは伝わらない」という危機感からこういう問題文をつくったのかもしれない。しかしそうだったとしても、元学徒に「つらい経験」について話していただいているんだということに考えがおよばなかったために、こんなことになってしまったのだ。この、「他者からの視座の欠如」は、ときにこのような、非対称な関係をつくりだしてしまうのだ。