同感に基づいた「怒り」

Dai-chan、返事がおくれました。トラックバックの意味がよくわからないままに、おそらくこれでトラックバックになっているだろうという予測のもとでかいてます。

あ、ヤマは、一般的に院生が陥るところのヤマで、まさに論文と、学会発表の資料作成の追い込みに入ってました。まだ続いているのですが、とりあえず学会発表を1つ終えました。そのときの経験が、ちょうど返事にもつながっていたので、ついでにここにかいておきます。

今日の学会、発表テーマ「住民と運動との協働はいかにして可能か―普天間基地移設問題を事例に」と題した報告をやってきました。内容は、詳しい過程は省略しますが、要するに、辺野古の住民が「本当は基地にきてほしくないんだけれど、経済効果に期待せざるをえない状況にあるから、しかたなく容認するしかない」という状況に陥っていることを、反戦平和運動自然保護運動の人たちはちゃんと認識した上で運動を続ける必要があるのではないか、それが可能になれば住民と運動との協働が可能になるのではないか、というものでした。これについて、「どうすれば運動が住民の意識を把握し、それを運動に組みこんでいくことができるのか、その方法を確立しなければ意味がない」という意見があり、自分の課題をあらためて思い知らされました。

まあ、こういう建設的な意見だけだったら、なんの問題もないわけです。ところがそうではなかった。とある、辺野古に昔から関わり続けているW先生がおもむろに手を挙げ「こういう報告には違和感を感じる。ほんとうに地域の人たちからの聞き取りをしているのか、疑問だ」という旨の発言があったのです。

彼女がどこに違和感を感じていたのか。それは、僕の報告が、反対運動を批判するものとなっていたという点です。反対運動に対する批判的なことを語っていた住民の意見を採用して論を構築していたところに、彼女は「偏り」を感じたのでしょう。

僕は、沖縄や辺野古、あるいは反対運動に対して、「同感」できているかどうかは自信がありません。ただし、「同情」はしていないつもりでいます。同情するという行為は、ひじょうにおこがましいし、沖縄に基地をおしつけている日本の私たちが沖縄に同情するなんていうことは、仮にもあってはならない。「同情するなら金をくれ」と沖縄がいうとき、それを誰が否定できるのだろうか。

しかし、世の中には沖縄や辺野古に、そして沖縄や辺野古の「ために」運動を続けている反対運動に同情しているひとがけっこういるのです。同情しているからこそ、運動を批判したりするような報告をすると、どうしようもなく腹が立つのでしょう。「あんなにがんばってらっしゃるのに(怒)」

僕は、別に反対運動が憎くて批判しているわけではありません。ただ、辺野古で声をあげられないでいる人たちのことはぜったいに無視してはならないという思いから、そして辺野古に基地がつくられないことが、運動にとっても、辺野古にとっても、ともに手放しで喜べるような状況をつくるためには、やはり運動に批判すべき点があるのではないか、という気持ちで、この問題にとりくんでいるわけです。

もっとも、辺野古の人たちが「声を上げられないでいる」ことを、否定的にのみ捉えるのは、「同情」的な感覚なのかもしれません。選択的に「声を上げないでいる」のではないかとも思えるふしもあります。このように、いつのまにか「同情」でものを語ったりしてしまうこともあるわけです。「西の楽園」に比して「東の戦場」といったときの自分に、同情がなかったかといえば、あったような気もします。そのときは、西と東のあまりの違いに、まちがいなく腹を立てていましたから。

このような「怒り」が、同情ではなく、同感に基づくものにしていくことが、運動にも、そして僕自身にも求められているのだと思います。そうなるまでには、まだ時間がかかりそうな気がするのだけれど。