芸術の商業化?

hirokuma2009-11-16

この週末は、特に予定していたわけではなかったのですが、結果的に2つの美術展にいってきました。


まずは土曜日。
とある学会の研究活動委員会が思いの外はやめに終わったので、ちょうど外出していたツマと待ち合わせて、週末の渋谷の人混みをかき分けてBunkamuraに。
みてきたのは「ロートレック・コネクション」


「コレクション」ではなく「コネクション」となっているのは、ロートレックを囲む人たちの作品も集められているから。
それぞれの画家がどのように影響を与え合ってきたのかを一覧にみることができるところに、この企画展のおもしろさがあります。
といいつつ、「コネクション」と題されているのに気がついたのは、このブログをかこうとネットで検索したときなんですけどね(^^;)
会場でみているときに、画家どうしの関係性がみえるところがおもしろいなーと思っていたら、そもそもそういう企画でした・・・


ほんとはもう少しロートレックの油彩画があるとよかったんですけどね。
どうしてもロートレックはポスターのほうが有名ですから仕方のないことですけど。

よくロートレックは、ポスターを芸術に高めた画家だと言われます。
それは間違いではないと思いますが、今回の企画展で、ミュシャの作品などと並べられているのをみて思い至ったのは、ポスターという領域に芸術がもちこまれたという側面。

ここには2つの含意があって、1つはポスター的な表現が芸術性を帯びたものとなったということ、もう1つはポスターという広告の素材として芸術が用いられるようになったということです。

前者においてロートレックが浮世絵の影響などを受けながらたどり着いた、平面的で簡略化された表現法はまさに芸術であり、ポスターを芸術に高めた画家といわれるのもうなずけるところです。

一方、後者に焦点を当てると、そこにみえてくるのは芸術家が果たすべき役割が、より商業的な度合いを高めていったということ。
少し前に新国立美術館でみてきた「THE ハプスブルク」において展示されていた数々の肖像画は、ハプスブルク家というパトロンの権威を示すためにお抱え芸術家たちが描いたものだという側面が強いように思います。
それと比べると、ロートレックミュシャが、劇場のポスターやシャンパンのラベルのために描いた絵は、彼らのパトロンであるところの劇場やシャンパン会社の利益のため、すなわちパトロンが提供するサービスや商品を消費者に購入してもらうために描かれたという意味において、より商業化されているなと思ったのです。


そのどちらがいいということではありませんが、「役に立つ学問を!」なんていう声があちらこちらから聞かれることの多い昨今、いろいろと考えさせられました。
「デザイン買い」をしがちな自分としては、ロートレック的な作品、すごく好きなんですけどね。


日曜はうってかわって「炭鉱芸術」なる興味深い企画展だったのですが、長くなったので続きは次回。