言葉と人との幸せな関係性について
先日、姪っ子が生まれたことで、かつて読んだことのある、子供の誕生について詠んだ詩をどうしても読みたくなった。
その詩は、読んだときになぜかやけに心に響いて、当時つかっていた手帳に書き写したことまでは記憶にあったのだけれど、肝心のその手帳が見当たらない。
覚えているのは「キリエ」という詩の題名と、「アフタヌーン」という詩が掲載されていた雑誌の名前だけ。
「アフタヌーン」
つまり、マンガのなかに出てきた詩なのだ。
ということで、「キリエ」と「アフタヌーン」で検索をかけてみたところ、マンガの名前が「キリエ」で、漫画家の名前が「もみじ拓」であることがすぐにわかった。
続いて「もみじ拓」と「キリエ」で検索をかけてみたところ、「もみじ拓傑作選 紅陽」という単行本に「キリエ」が収載されていることがすぐにわかった。
- 作者: もみじ拓
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/07/23
- メディア: コミック
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そしてamazonで「もみじ拓傑作選 紅陽」を探してみたところ、すでに絶版ではあったけれど、古本がマーケットプレイスで買えることがわかった。
僕は[ショッピングカートに入れる]ボタンをクリックし、いくつかの項目を入力して購入の手続きをとった。
3日後、「もみじ拓傑作選 紅陽」が手元に届いた。
すっかり忘れてしまっていたが、「キリエ」は、漫画家志望の高校生「安芸」と、自作の詩をライブハウスで絶叫する同級生「青木太郎(詩人としては青木キリエ)」との交流を主軸としたストーリーだった。
病床にあるキリエの父は、キリエが生まれてすぐに、一冊の詩集を出版した。キリエの父は、なるべく多くの人に見てもらいたいからという理由で、自宅には一冊も詩集を残していなかった。なのでキリエはその詩集を読んだことがない。
一方キリエも、父に自分の詩を読ませたことも聞かせたこともなかった。そして結局、キリエの父は、キリエの詩を読むことなく死んでしまう。
実は、安芸はその詩集を読んだことがあった。市の図書館で偶然みつけたのだ。なぜなら「キリエ」というタイトルの詩集だったから。
しかし安芸は、その詩集をなくしてしまう。なくしてしまったあと、「キリエ」という詩集を読んだということをキリエに伝え、その詩集がキリエの父が書いたものであるということを知る。キリエがその詩集を読んだことがないということも。
安芸は、自分がなくしてしまったとキリエに伝えることはできなかった。そしてキリエは、図書館にいって、その詩集がなくなったことを知る。キリエはそのことをうたった詩をライブハウスで静かに発声する。
そこでキリエがうたったのは、言葉と自分との幸せな関係について。
父親の詩集は、キリエにとって、読みたいけど読みたくない存在であった。みたことのないその詩集は、存在しないものであったかもしれないからだ。でも安芸に、詩集が存在していることを知らされる。キリエは意を決して図書館にいく。そして詩集がなくなっていることを知る。
そのことはぼくに安住を与えた
存在していることはわかった
言葉は存在していた
ぼくも存在している
ぼくと言葉は何て幸せなんだろう
言葉とは意思である。言葉を読むことで、言葉を発した者の意思が伝わってくる。しかし発した者の意思がそのままに伝わるとは限らない。だからキリエは、父の詩集を読むことが怖かったのだ。
しかし詩集を読むことはできなかった。でも、詩集が存在していることはわかった。父の意思が存在していることはわかった。
キリエは父の意思の中身をしらない。けれど、父の意思が存在していることは知っている。
キリエが詩集にちりばめられている言葉を読めば、父の意思はキリエの意思に介在されてしまう。
しかしキリエは、父の意思に介在することなく、父の意思の存在だけを知ることができたのだ。
何て幸せな関係なのだろう。
なお、僕が記憶に残していたのは、父の詩集に載っていたという以下の詩である。
主よ 憐れみ給え
主よ 憐れみ給え
何度呟いただろう
この浮遊するキリエを
父親はキリスト教徒であった
私が十五の時に死んだ
私の脳味噌の宇宙を
キリエが浮遊している
今日 私にも子が生まれた
浮遊し続けろ!
キリエよ!
「キリエ」とは「主よ憐れみ給え」という文句のことなのだそうだ。
さて、僕はインターネットをつかって「もみじ拓傑作選 紅陽」を購入し、「もみじ拓」氏の言葉に触れた。
それは幸福なことなのだろうか?
言葉を通して他者の意思に触れること。他者の意思に、自分の意思を介在させること。そして他者の意思を、自分の意思に取り込むこと。
それもまた、幸福な関係なのだと思う。少なくとも僕は、再びもみじ氏の意思に触れることができて、うれしかったです。