あれから1年

僕は研究上の必要性から、“普天間基地移設問題年表”というエクセルファイルをデスクトップにおいている。何か動きがある度に、年表は日々更新されていく。

2005年10月29日の項には、このように書いてある。

外務・防衛閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)を米国防総省で開催。在日米軍再編の中間報告に合意。沖縄の負担軽減では海兵隊の司令部要員など兵員約七千人の県外移転を打ち出すも、実戦部隊の削減は見送り。最終報告は06年3月と明記。

ここで合意されたのは、普天間基地の移設先として、キャンプ・シュワブ兵舎地区を活用し、一部海域を埋め立てるとする「沿岸案」である。実際にはこの沿岸案については26日に日米両政府によって合意されており、29日の合意は儀礼的な性質をもってはいたのだけれど。

この沿岸案について、自分が当時どう考えていたのか思い出すために、一年前の日記を読み返してみた。ブログには、こういう備忘録的な効能もある。

当時、僕は、当然のことながらこの沿岸案を強く批判していた。その気持ちは今でも変わっていない。だが、当時もっていた希望的観測は、もうほとんど持っていない。一年の間に、当時の市長であった岸本建男氏はこの世を去り、岸本さんが後を託した島袋市長は、いわゆる「V字型滑走路案」に合意してしまい、政府は強硬な姿勢を強め、運動は体勢を立て直せずにいる。そして辺野古は、受け入れに傾いている。

安倍政権にかわってからの流れは、あまりに露骨だ。高市沖縄担当相は、基地移設と振興策はリンクしていると臆面もなく発言し、久間防衛庁長官は地対空誘導弾パトリオット(PAC3)の沖縄配備について沖縄の人は喜んでもらいたいとのたまっている。

本音と建て前を使い分けることをやめた政府の姿勢には、沖縄の苦しみへの配慮などみじんもない。

このような情勢のもとで、沖縄は、来月19日に県知事選をむかえる。政府の無遠慮な作法に県民は怒りをもって抗うことができるだろうか。「できるだろうか」と、他人事のような口調でしか書けないのが、今の自分の偽らざる心情である。抗ってほしいとは思っているが、抗ってくれとはいえない。

きっとまた一年後、僕は自分の記憶を呼び起こすために、またこの日記を読むだろう。そのとき、少しでも事態が良くなっていることを、切に祈る。