当事者のきもち―A級戦犯合祀

突然だが、僕のバイト先は調剤薬局である。薬剤師の補助のような仕事だ。

調剤薬局なので、必然的に顧客は高齢者が多い。下町の、地域に根ざした薬局なので、古くからのお客さんも多く、自分もお客さんから孫のように可愛がってもらっている。

そんなお客さんの一人―仮にトミさんとしておく―が先日来局していたとき、たまたまテレビで、NHK連ドラ「純情きらり」の東京大空襲のシーンが流れてきた。

トミさんの年齢は83歳。もしかしたらこの東京大空襲を経験しているのかもしれないと思ってトミさんのほうをみたら、彼女は自ら、このときは上野にいたんだ、と語り始めた。

彼女は、当時のことを鮮明に覚えていた。ほんとうに、ひどい有様だった。そして話のなかで、こういった。

「小泉さんが靖国に参拝したけど、それはどうでもいいの。でも私は、A級戦犯が合祀されているのはイヤ。だってあの人たちが戦争をやめなかったから、あんなひどい目にあったんだから。」

アジアの国々との関係や、愛国心の立場からばかり語られることの多い靖国神社だが、トミさんの言葉は、そこで弄されている数多の言葉よりも、説得力のある意見だった。戦争で死んだ人たちのために祈りたくても、そこにその戦争をやめなかった人たちも祀られているので、靖国神社にはいけない。こういう当事者の思いは、靖国をめぐる言説のなかに、あまりあらわれてこないように思う。

政治の言葉からは、個人がどんどんそぎ落とされていく。フェミニズム運動のスローガンは、その意味で示唆的だ。

Personal is Political ― 個人的なことは政治的である ―