「辺野古」から辺野古へ

昨日も少し書いたけど、カルチュラルタイフーンに参加してきました。セッションタイトルは「戦後社会に潜む暴力−<南>からの視座」。報告タイトルは「地域を巡る政治的・経済的構造と住民の応答−普天間基地移設問題を事例に」というもの。普天間基地移設問題を政治的・経済的圧力との関係から研究を進めている塚田大海志くんとの共同報告でした。


報告はともかくとして、ディスカッションがひじょうにおもしろかった。僕ら以外の報告が、どちらかといえば抽象的な報告だったせいもあって、議論は僕らが報告した普天間基地移設問題を中心に進む。特に、“「辺野古」から辺野古へ”という、結論で提起した問題についてフロアも含めて議論がヒートアップ。


ここで「辺野古」とは、反戦平和運動の人たちが語る、普天間基地の移設先としての「辺野古」のことを指し、辺野古とは、人々が生活する日常の辺野古のことを指している。「 」(カギカッコ)のない辺野古では、複雑な利害が絡まりあっており、本当は基地などきてほしくないのだけれど、いらないとは言い難い状況がある。反対運動の人たちは、この「 」のない、日常の辺野古にも目を向け、住民の微妙な立場を理解した上で、ともに辺野古の将来を考えることができるような運動を展開する必要があるのではないかと主張したのである。


これに対してフロアから、「 」をとっても、それは日常の辺野古ではなくて、辺野古を語る限りは常に「 」つきの「辺野古」でしかない、という意見が。む、さすがに鋭い。でも大丈夫。だってすでに答えを用意してあったから。

「たしかにそのとおりだけれど、でも「 」には強弱があって、現在、反戦平和運動が語るところの「辺野古」は、あまりにも強い力をもっている。だから外から見れば、辺野古はみんなが反対しているようにしか見えないのだけれど、それは事実とは異なるし、住民としても違和感を感じている。」


さらに続ける。


「でも一方で、反戦平和運動が語る「辺野古」は、韓国やパレスチナなどと辺野古をつなげることを可能にする。地球規模での支援を得るためには、こういう「 」は必要であるのです。」


ぱしーん!きまったぁ!!


ま、きまったかどうかはさておいて、「 」つきの「辺野古」という考え方や問題性についてはフロアに共有してもらえたと思う。フロアを含めたディスカッションでは、報告者とフロアとがすれ違ったままに互いの意見を主張しあうということもままある。特に僕のように、沖縄の反戦平和運動を批判する面のある報告では、沖縄への思い入れが強い方から、「お前は沖縄の気持ちがわかってない」と感情的に批判されることも多かった。それだけに、フロアと有意義な議論ができたことは、とてもうれしい。


だがしかし、普天間基地移設問題それ自体は、何も解決していない。辺野古が抱える問題も解決していない。というより、その問題自体が見えていない。研究者の自己満足でおわることのないよう、今後も機会をみつけてこの問題にかかわり続けていきたい。